地下へ降りる夜というもの
人は、えー、自分の輪郭を確かめたくなる瞬間があるのであります。
それは栄光の場ではない。
むしろ少しだけ場違いで、少しだけ背伸びをしてしまった場所であることが多い。
今回思い出したのは、えー、かつて私が歌舞伎町のハプニングバーへ足を踏み入れた夜のことであります。
結論から申し上げますと、私はその空間で完全に戦力外でありました。
欲望の中心ではなく、外周。
主役ではなく、観客。
えー、そういう立ち位置でありました。
宝箱に見えた夜の街
当時の私は若く、夜の街を宝箱のように見ておりました。
ネオンの下には刺激が眠っている。
地下へ続く階段の先には、えー、まだ知らぬ世界が広がっている。
今振り返れば、ただの好奇心過多の凡人であります。
時代は今より規制が緩く、無料掲示板やチャットで十分に人と出会えた頃でありました。
欲望も孤独も、えー、ほとんど加工されることなく流通していた時代であります。
その一角に、特殊性癖の人々が集う掲示板がありました。
まず申し上げておきたい。
私は口ほどにもなく特殊性癖はない。
少なくとも、自分ではそう思っているのであります。
しかし、その掲示板を覗いていたという事実が、えー、何より雄弁であります。
そこで出会ったのが、きれいな女性でした。
落ち着きがあり、経験値があり、性に対する姿勢もどこか達観している。
私はどこか、彼女の背中を追いかける側でありました。
ある日、彼女は言いました。
「一度、行ってみない?」
行き先は、歌舞伎町の会員制ハプニングバー。
存在は知っている。
未経験である。
向いていない予感もしている。
それでも私は頷いた。
若さとは、えー、無根拠な肯定であります。
扉の向こう側
この種の店は所在地を公開しないことが多く、初訪店の場合は指定された場所から電話をし、詳細な道順を教えられるのが一般的であります。
一種の通過儀礼であります。
しかし今回は同伴女性が会員であったため、私はその過程を経ることなく地下へと導かれました。
雑居ビルの階段を下りる。
コンクリートの冷たさ。
閉ざされた扉。
脇のインターホン。
押す指に、えー、妙な緊張が宿る。
扉が開くと、スタッフの女性が明るく迎えてくれました。
外はまだ明るい時間帯だったと記憶しておりますが、空間の温度は完全に夜でありました。
身分証確認は厳格で、
ルール説明は丁寧で、
設備案内は淡々としている。
無秩序のように見える世界ほど、秩序を必要とする。
えー、それがよくわかる瞬間でありました。
整然とした欲望
店内はバーとして成立しておりました。
アルコールは充実し、
フードはビュッフェ形式。
ソファは広く、
カーテンの向こうにはプレイルーム。
ロッカーとシャワールームも完備。
プレイルームにはマットが三、四枚敷かれ、サイズ別のコンドームやティッシュが整然と備え付けられている。
そして店内には、貸し出しのコスチュームやアダルトトイの準備もあった。
実に合理的であります。
しかし空気は、えー、濃い。
そこには期待と焦燥が混じっておりました。
男たちの熱量
すでに店内は盛り上がっておりました。
男性比率は圧倒的で、常連らしき人々が自然に会話を交わしている。
我々はカップルとして入店したため、視線が集まりました。
同伴女性がきれいだったこともあり、羨望の視線は隠されることなくこちらに向けられる。
この世界では、女性を口説くにはパートナーの許しを得るのがマナー。
結果として、えー、男たちは私に話しかけてくる。
私は突然、門番であります。
しかし申し上げる。
私と彼女の間に恋愛感情も肉体関係もない。
寝取られ願望など一切ない。
ただの同行者であります。
それでも男たちは本気であった。
会話はすぐに彼女へと向かう。
同じ男として気持ちはわかる。
だが、ぎらつきがある。余裕がない。
焦り。
目の色。
えー、言葉の端ににじむ欲望。
若かった私は、その必死さをどこか滑稽に感じていた。
えー、今ならもう少し優しく見られたかもしれません。
音だけが近づく
ソファは広いが、距離は近い。
意気投合した男女が、えー、自然に距離を縮めていく。
唇が重なり、
肌が露わになり、
湿った音が空気を震わせる。
合意が成立すれば、シャワーへ。
そしてカーテンの向こう側へ。
耳を澄ませば、
断続的な吐息と、
鈍く響く衝突音。
正直、男の声は聞きたくない。
音は現実を強制する。
まさにカオスでありました。
戦力外の自覚
この場では、男性から女性へ積極的に声をかけなければ何も起きない。
大仏のように座っていては、ハプニングは訪れない。
しかし薄暗い店内では、私は男女の区別すら難しい視力であります。
アイコンタクトなど成立しない。
会話の際は、目が悪いことを最初に伝えておりました。
違和感を与えないための予防線であります。
だがそれは同時に、えー、自らの不利を宣言することでもあった。
私は悟りました。
ここは私の戦場ではない。
欲望の外側で
不思議なことに、衝動はほとんど湧かなかった。
むしろ私は、ここに集う人々の心の動きやスタッフの距離感、空間の秩序に興味を持っていた。
同伴女性は、数名の男性と時間を過ごしたようであります。
彼女にとっては、ここは解放の場だったのでしょう。
私は欲望の中心には入らず、ただ観察し、理解し、そして疲れた。
えー、それが正直なところであります。
地上へ戻る階段
店を出たのは夜。
地下から地上へ続く階段を上るたび、異世界から現実へと戻っていく感覚がありました。
歌舞伎町のネオンは、地下の空気とは別の色をしていた。
きっと疲れていたのでしょう。
私も彼女も口数少なく、新宿駅へ向かった。
私は思いました。
二度と来ない。
仮に願望が芽生えたとしても、physical面で圧倒的に不利であります。
そして何より、自分らしく戦える場所は他にある。
地下で私は戦わなかった。
いや、えー、戦えなかった。
しかしそれでよいのであります。
あの夜は、欲望を満たした夜ではない。
自分の輪郭を、えー、静かに確かめた夜でありました。

コメント