先日の深夜であります。
私は例によって、鉄道会社の送迎サポートを利用しておりました。
降車駅ホームでは駅員さんが迎えに来て、改札まで安全に誘導してくださる――そんなありがたいサービス、何度も使っておりましたし、信頼しておりました。
しかしその夜は、違ったのであります。
列車を降りた瞬間、気配ゼロ。
待っても来ない、呼んでも来ない、風すら吹かない。
完全に「しーん……」という音が聞こえるタイプの孤独に包まれたのであります。
私は思いました。「あれ、これ、またやられたな」と。
“また”というのは、そう、幼少期のある出来事を思い出したからであります。
――私がまだ、小さな、無垢な、光ある時代のことであります。
母と路線バスに乗っておりました。
そして、気がついた時には、バスに私ひとり。
母はいない。誰もいない。景色もわからない。
残されたのは、車両のシートと、妙に静かな空気だけ。
記憶はぼんやりしているのに、なぜか「取り残された」という感覚だけは鮮明であります。
終点の営業所のようなところで保護された私。
あの時も、ただ、ぽつんと、存在を忘れられたのであります。
あれから幾年が経ち、大人になった私。
今や視覚のほとんどを失い、過去最高に存在感が薄い。
その私が、またしても公共交通機関に置き去られたのであります。
これはもう、運命であります。
選ばれし「置き去られ人間」。
この星に“忘れられるために生まれてきた男”、それが私、であります。
「せめて靴ぐらい脱いどくべきだったか」とすら思いました。
いや、脱いでても気づかれなかった可能性すらある。
ホームドアがない駅なら、転落してもきっと「終電だから仕方ない」で片づけられていたのではないか――そんな妄想まで膨らむ始末であります。
私という存在は、誰の記憶にも、鉄道会社の引き継ぎにも、乗務員のメモにも残らなかった。
忘れられるプロフェッショナル。
「そこにいなかった男」――それが、私のキャッチコピーなのであります。
そしてこのことから、ひとつの事実が導き出されます。
私は、気づかれにくい。
気づかれないうちに現れ、気づかれないうちに置き去られる。
いわば、ステルス障害者であります。
しかし、そんな私でも、帰りたい気持ちは人一倍強いのであります。
階段を自力で下り、寝ていた妻にしぶしぶ連絡を取り、ビデオ通話でなんとか脱出。
シュールな画面越しに「右、まっすぐ、そこ段差あるから!」と声が飛ぶ。
これはもう、“人間ナビタイム”であります。
そんなわけで、「置き去られ体質」は一朝一夕には変わらない。
でも、だからこそ笑い飛ばしたい。
次に置き去られた時のために、寝袋でも持ち歩く覚悟はある。
あわよくば「忘れられた視覚障害者」として、どこかでグッズ化されないかとすら願っております。
置き去られてもなお、たくましく。
忘れられてもなお、笑いを。
それが、私の生き様であります。
コメント
「プラットフォームにテントを張る障がい者」のLINEスタンプでも作りますか。しゃべるやつ。
それはですね、めちゃくちゃ売れそうであります。
「置き去り障がい者スタンプ(しゃべるver.)」――これはもう、LINEスタンプ史に、新たな1ページを刻む可能性すらあると言っても過言ではないのであります。
いま、私の頭の中にはすでにラインナップが浮かんでおります。
例えば――
「ホームにいます。ていうか、ずっといます」
「駅員さん、鬼ごっこですか?」
「本日の宿:◯◯駅下りホーム」
「わたしの存在、空気より薄い説」
こうしたフレーズに魂を吹き込むべく、ボイスはやはり「ゆるい関西弁」か「無感情AI音声」が適切であります。
このギャップが、スタンプ界における唯一無二のポジションを築く鍵となるのであります。
私としては、これを全国の鉄道会社にプレゼントする方向で、前向きに検討していきたいと、そう考えているところでございます。