えー、これはですね、もう十年以上も前の出来事であります。
当時住んでいたマンションの近くに、セルフ式の某うどんチェーンがございまして、そこへ妻とふたり、昼飯を食べに行ったわけであります。
ちなみに我が妻、普段は物腰やわらかく穏やかに見えるのですが──ひとたび理不尽やミスに遭遇すると、一瞬でギアが入るタイプであります。
一方の私はどちらかといえば最終確認や手続きの段階で細かく精査するタイプ。
──機動力と発動タイミングにおいては、圧倒的に妻が上であります。
さてその日、店内はやや混雑しておりまして、注文後、厨房の混乱ぶりにより、私たちは番号札を手渡され、席にて待機することになったのであります。
しばらくすると──妻の目が光りました。
「ちょっと、あのおじさん、うちと同じものもう食べてるんだけど…」
視覚のない私には、当然確認できるはずもないのですが、妻の“顔色の変化”を察知する能力だけは身につけておりまして、「あ、これはマズいやつだな」と察知したわけであります。
しかもその“勝ち誇ったような笑顔”を浮かべて食べる中年男性の様子が、妻には“相当な煽り”に見えたようでありまして、
彼女は店員さんを呼びつけてこう伝えたのです。
「後から来た人、同じメニュー頼んでてもう食べてるんですけど」
──そういう場面では、視覚障害者である私はただ黙って隣に座っているしかありません。
まさに、“横にいる謎の人”です。
店員さんは平謝りで「すぐお持ちします!」と厨房へと戻り、数分後に注文したうどんが到着いたしました。
そのときの妻の様子──ええ、“ぶすくた”、言っておりました。
私はというと、内心こうつぶやいていたわけであります。
「いや…うどんは逃げないし、伸びても妻の機嫌よりはマシだし…」と。
ともあれ、文句を言いながら食べるうどんが、また妙にうまいという事実もあるわけでありまして、
私は「これはこれでよい」と、納得しながら食べ進めた次第であります。
さて、お会計であります。
食器を返却し、レジへと向かったところ、先ほどの責任者らしき女性スタッフが、
開口一番こう言ったのであります。
「お会計はいただきませんので」
──その瞬間、妻が間髪入れずに返したのがこちら。
「当然だよっ」
絶妙なタイミングと、説得力。
私は思わず「その返し、100点」と、心の中でスタンディングオベーションでありました。
ちなみにこの「当然だよっ」、音声で再現できないのが心苦しいところでありますが、
リアルでお会いできる方には、リクエストさえいただければ、まるでギターリフのように何度でもやりますのでお気軽にお申し付けください。
レジ前には短い静寂が流れた後、空気が一段と重くなった気もいたしました。
そう、私はもはや“背景の柱”のような存在でありました。
ただ、私としましては、不利益を被った感覚も薄く、注文したうどんもいただいたわけでありますから、
「いえ、自分の分はきちんとお支払いします」と申し出て、通常通りお支払いしたのであります。
ええ、そういうところだけは妙に律儀な性格でして。
そして後日、この話を飲み会で披露したところ──
特に女性陣から妻を称賛する声が多かったのは事実であります。
そして現在──
うちの食卓では、誰かが些細なことで得意げになったり、ちょっとズレたタイミングで発言したりすると、
決まって妻があの名ゼリフを放ちます。
「当然だよっ」
まるで合言葉。いや、もう家庭内の呪文です。家訓です。
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